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第2章 光と影の間で 第3話

작가: 花宮守
last update 최신 업데이트: 2025-03-10 06:06:31

 本をじっくり読むには時間がかかる。私は、気に入った文章を抜き書きしてみたり、感銘を受けた箇所にメモを貼ったりするから、なおさら。自分の本なら直接感想を書き込んでしまいたいくらい、本にのめり込む。一冊の本と、恋をするようにじっくり向き合うのが、天霧鈴という人物の癖らしい。……ううん、私の癖、だよね。

 私を天霧鈴だと教えたのは、晧司さん。病院の人にもこの名前で呼ばれたし、保険証などの書類もそうなっていた。

 だけど、もしも。病院の人も巻き込んで、私を騙しているとしたら? ミステリーなら、あり得なくはない展開。よほど手が込んでいないと病院の書類なんてごまかせないし、明るみに出たら大騒ぎになると思うけど……私が、何かの事件の被害者で身を隠す必要があるなら、できないことではないのかもしれない。あんな夢も見たことだし……。その場合、私は、騙されているというより、守られていることになる。

 この説明で齟齬が生じるのは、晧司さんが最初から私に「リン」と呼びかけていたこと。目覚める前から記憶喪失だと確信していなければ、使えない手だ。

 または、よく似た別人。晧司さんの従妹の天霧鈴は別にいるけど行方知れずで――あるいは死んでいて ――私をその人と思い込んでいるか、身代わりにしている。ほかの人に会わせると嘘の世界が壊れるから、会わせないよう閉じ込めた。

「うーん……それだと、七華さんの反応と矛盾する」

 私のために見せた涙は、演技にしてはできすぎていた。

 考え始めると止まらない。三か月以上、言われるままに受け入れてきたことに、今初めて疑念を抱いている。

 私は、どこの誰なのか。

 疑いは、歩き始める第一歩。私は今ようやく、自分の頭と心を未来へ向けて動かそうとしている。この探索の旅を、晧司さんは共に歩んでくれるだろうか。それとも、私は栗色の髪のアポロンを頼るのだろうか。

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     ラグにぺたんと座り、ソファーの縁に手をかけて呟いた。あなたはこの世の何より私を大事にしてくれるけど、私たちはただの従兄妹同士。夕李は私を愛してくれていて、私も心が動いたはずなのに、受け入れることができなかった。二人とも悲しそうで、それは確かに私のせいなんだ。「どうすればいいっていうの……」 起きてよ。教えてよ、晧司さん。あなたは全部知っているんでしょう。知識だけで構わない。経験として思い出せなくてもいい。今すぐ、知りたい。「り、ん……」 ハッと顔を上げると、彼は安心しきった笑みを浮かべていた。夢を見てる。今ではない、以前の私の夢だ。晧司さんのことを、たくさん知っていた頃の私――。 たまらなくなって立ち上がり、自分の部屋へと逃げ込んだ。 私の部屋は、奥のドアから専用のお風呂場へ行ける。すっきりしない気持ちを洗い流したくて、シャワーを浴びた。洗面所にもなっている脱衣所の鏡を覗くと、何をしてきたのか一目でわかる痕がいくつも付いていた。夏のワンピースタイプの寝間着では隠し切れない。髪を垂らしてごまかした。「晧司さん、大丈夫かな……」 さっぱりとした体で考えれば、自分の子供じみた振る舞いが恥ずかしくなる。悲しんでみても始まらない。デートが失敗したのは、私の心の準備が足りなかったせい。夕李は、待つと言ってくれた。今夜のことで、お互いに悪感情を抱いたわけでもない。 晧司さんの方は、妹の初デートで気を揉む兄のような気持ちだったのかもしれない。あれだけ過保護なんだもの、考えすぎてしまう前にお酒に逃げることは十分に考えられる。説明のつかないことが多いにしても、目の前の情報を的確に読み取る努力はできる。私が彼の立場でも、居ても立っても居られないだろう。 八月といっても、この辺りは朝晩の気温が低い。あのままでは風邪を引いてしまう。気になって見に行くと、体勢を変えることなく眠っていた。引き続きいい夢を見ているのか、表情は穏やか。ぐちゃぐちゃだった私の心も静まっていく。「リン……そっちへ行ってはいけないよ……リン&

  • 愛は星影に抱かれて   第2章 光と影の間で 第18話

     夕李は、ひと言も私を責めることなく、別荘まで送ってくれた。普段は使わないカーステレオから、今日観た映画の主題歌が流れてきた。……ほんの少しの勇気があれば……私が立ち止まっているのは過去? 未来? 現在はどこにあるの……――そんな曲だった。 今夜は帰らないと思っていた場所へ、帰ってきた。シートベルトを外すのが怖かった。夕李との日々が、終わってしまうようで。「体を冷やさないようにね」「ええ。あなたも」「今日のことは気にしないで……うまく言えないけど、僕がすずを好きなことに変わりはないから」「夕李……」「次は笑える映画を観にいこう。いいだろ?」 ズキンと胸が痛んだ。彼は苦しんでる。私の気持ちを軽くしようと、無理に明るく振る舞おうとしている。「ええ。……おやすみなさい」 車内に長居すれば、彼の傷を深くする。シートベルトを外して、ドアを開けた。「すず」 腕を掴まれ、振り返った。「待ってる。……おやすみ」 言うべきじゃないのに言ってしまった、でも口から出たことは戻らないよな、と……寂しそうな瞳が語っていた。私も無理に笑みを作って、車を降り、ドアを閉めた。走り去る車。点滅するテールランプは、映画で使われていた暗号。 ――愛してる。 涙が出そうになったけれど、今の私に泣く資格はない。夕李の想いを、胸に刻み込むだけ。空には暗雲が広がってきている。「台風が近付いてるんだっけ……」 ざわっと揺れる木の枝が私を責めているようで、ゾクッとして玄関に駆け込んだ。「ただいま……」 家の中は、奇妙なほど静まり返っている。晧司さんの寝室にも書斎にも、気配は感じられない。リビングまで行ってみると、意外な光景が私を迎えた。 晧司さんが、ソファーで眠っている。それ自体は珍しくない

  • 愛は星影に抱かれて   第2章 光と影の間で 第17話*

     ホテルの部屋が何号室なのかも、部屋の装飾さえも、情報がうまく頭に入ってこない。これから始まることと、彼の存在感に圧倒されて、息をするのが精一杯。 「すず……」 「影野さん……」  瞳の奥に炎が揺らめいている。肩を抱く腕に力がこもる。触れ合った唇は震え、いったん驚いたように離れた。それから、心を決めたようにしっかりと重ねられ、吐息が絡まり……性急な唇が、私の首筋、鎖骨と下りてきた。 「あっ……」  漏れた声は、熱を持って男性を求める時のもの。この体は、抱かれることを知っている。彼の指がスカートをたくし上げ、そのまま腰を抱かれてベッドに横たえられた。 「好きだ」 「影野さん……」  徐々にはだけていく胸元をなぞる唇に、太腿の内側を悩ましくたどる指に、返事をしたい……しないといけない……。 「考えなくていいから……今は、僕を受け入れてほしい……」  ムードを出すために抑えられた照明の中、直接彼が触れる部分が増えていく。ここのところ胸が疼いていたのはこの人のためだったのだと……甘噛みされて高まっていく中、体を明け渡す言い訳をしていた。大丈夫、彼は悪い人じゃない、私も彼が好き……。 「ゆう、り……」 「やっと名前呼んでくれた……」  胸のふくらみを強く吸われ、ピリッと痛みが走った。 「ンッ……」  所有印を付けながら、下半身への愛撫も強めていく。下着の中に手が入ってきて、腰が跳ねた。頭の隅を掠めた違和感。 「だ、め……」  はっきりしない制止。自分の反応に戸惑い、親指を噛んだ。そうするうちにも、人肌の温もりに誘われ、体の奥から溢れてくるものがある。 「だめ……? ほんとに……?」 「あ、んっ」  敏感なところを攻められれば、体は応えてしまう。私はこの行為が嫌いではない……おそらく慣れている……その相手は彼だったの……?   水音と、夕李の熱い息に、思考力が低下していく。とても大切に触れてくれているのがわかる。でも……。  違和感は、秘所に侵入してきた指先で、決定的なものとなった。開かれるはずのそこが、縮こまっていく。  ――違う!

  • 愛は星影に抱かれて   第2章 光と影の間で 第16話

     七月が終わる頃には、影野さんと過ごす時間は私の当然の日課となっていた。七華さんは現れない。忙しい春日さんをわずらわせるのもと、私と影野さんが買い出しに行くようになった。彼は車で別荘の前まで来て、晧司さんに丁寧に挨拶をする。晧司さんは「リンを頼むよ。リン、ゆっくり楽しんでおいで。買い物は最後でいいんだよ」と私たちを送り出す。『買い出しの日』が『デートの日』に変わるまでに、時間はかからなかった。 影野さんが勤める美術館に行ったのは、八月の終わり。現在の特別展示がもうじき終わるため、彼は次の企画のことで忙しく、顔を見たのは一週間ぶりだった。 会えない間もメールはくれて、一通の返事を書くのに三十分も悩んだこともあった。あれもこれも話したい……と迷った結果、「お仕事頑張ってください。次に会えるのを楽しみにしています」と、当たり障りのない文面になってしまった。けれど彼は、それが嬉しかったと言ってくれた。「一生懸命考えたんだなって……『会いたい』って書いては消し、書いては消して、あの文面になったのかな、とね。僕の自惚れでなければ」 美術館に着く前、彼は見晴らしのいい場所で車を停めた。雄大な景色の中、風になびく私の髪をそっと押さえ、熱を帯びた瞳でそんなことを言われたら、もう我慢などできなかった。私の両肩に手を置いて言葉を待つ彼に、正直に伝えた。「会いたかった……影野さん。私のアポロン」「すず……」 初めての抱擁。彼の体躯は、細いのにしっかりと筋肉がついている。シャツの下の鼓動を聞きながら、私は今日帰らないのかもしれないと思った。 予感は当たった。 この日、私を案内するためだけに美術館を訪れた影野さんは、特別展示と常設展示をまわったあと、山を下りた。車内では展示のことで話が弾みながらも、時々挟まる沈黙にドキドキした。食事とお茶、それに映画。どれも楽しかったけれど、夜を待っていることは明らかだった。 暗くなってきた頃、再び山へ入った。行く手には、幻想的な雰囲気のホテル。彼は駐車場の手前で一時停止して、私をちらりと見た。私は、彼のシャツを摘まん

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